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竹中針恵

太白




  ※「白」は「うつろ」の意。転じて、中が空洞の器などを指す。「太白」は、大きな杯のこと。

 彼の住処は水底にあり、常にかすかに滝の音が聞こえた。あまりに絶え間なく聞こえるので、聞こえていることさえ、いつもは忘れていた。ときおり彼の住処に微細な生き物が這いこみ、浅い眠りを覚まされたりすると、とたんに遠い轟きが耳につきはじめ、俄然不快になるのである。
 広い湖面に降り注ぐ滝の、不断のざわめきを感じるたびに、額に鈍い痛みが走る。何かの記憶がよみがえりそうな気がするのだが、きっとろくなことではあるまい。そう思わせる痛みである。そしてまた、彼はまどろむ。何も感じずにいるために、眠りにつく。彼の姿は、石の壁や床と同化してしまったように動かない。事実、苔は住処の内部だけでなく、彼の体をも覆いつつある。近ごろでは、苔を食べる生き物が体をつついても、大して気にならなくなった。
 その日、彼は珍しく、人の声を聞いた。いつもは何も感じまいと努めているのに、なぜ聞こえてしまったのかと彼はいぶかしんだ。心地良さそうに歌う男の声は、朗々としてよく響いた。
(ばかでかい声を出す奴もいたものだ)
 怠惰に体を横たえたままそう考えて、彼はまた眠ろうとした。歌は長く続いた。彼は眠れなかった。男の声に唱和する、大勢の声。楽器の音色。時がたつほど多くの音が重なりあって耳に届いた。彼はそっと目を開いてみた。苔と水草がおだやかに揺れている。その向こうから、重なりあう波のように、音が押しよせてくる気がした。彼はそのとき、滝の音のことは全く忘れていた。

  *  *  *

 湖畔の宴席もなかばを過ぎ、樹々に咲く花まで酔いが回ったように色づいている。宴の主人は、満足げに微笑みながら、座を大いに盛り上げてくれた上客に歩み寄った。
「先生、さすがは当代一の詩人とのうわさにたがわぬ、いや、うわさ以上の素晴らしさですな。斯様な作品が即興でなされるなど、今日こうして目の当たりにしなければ、とても信じられぬところでした。おかげでこの送別会も盛況、お招きいたした私も鼻が高うござる」
 先生と呼ばれた詩人は、宴席の隅に陣取り、杯をしきりにあおっていた。下働きの者が置いていくはしから飲んでしまうのであろう、あたりには空の酒瓶がいくつも転がっている。主人は笑いながらも、内心おそれをなしていた。
「なあに、このように皆様のご厚志あふるる宴の様子を見ておれば、自然と詩興もわいてこようというもの。さぞ人望のあるお役人なのでしょうな、あの柳家の御次男という方は?」
と、杯を口から離して詩人は答えた。
「柳ではなく、楊家ですよ。御三男でいらっしゃいます。亡くなられた父君には、私もずいぶんお世話になりましてな、このたびの宴を主催いたしたのもそういったご縁から」
「さよう、楊どのでありましたな。あの方がこれから赴任される都でも、花と柳の紅緑が見ごろでありましょうが、今ここで酒を飲みながら眺める景色にはかなわんでしょうな。私が梁どのであれば……」
「楊どの、です」
「……船で旅立つのはやめにして、しばらくこの湖上に留まっていたいところです」
 そう言って、詩人は新しい酒瓶の封を切った。
「お口に合いますかな。先生はかつて都じゅうの酒家にその名を轟かせたというお方、私どもがお出しするようなものでは物足りぬかもしれませんが」
「いやいや、これはまた格別の逸品。ひとたび芳香をかげば、湖面に波が立つように言葉はおのずから胸にうちよせ、こう、」
と、また杯をかたむけ、
「身のうちに流し込めば、滝が流れ落つるごとく、詩の形をとってほとばしり出てまいります。玉の台に座をしめて美姫を相手に飲むといえども、これほどの酔い心地はめったに味わえますまい。天漢(天の川)を酒で満たし、北斗星をひしゃくとし、湖を太白(おおさかずき)として酌むこと三百杯といえども、一夜にして飲み干して見せますぞ」
 使用人が、また新しい瓶を持ってきた。詩人の脇に二つの瓶をそっと置いたかと思うと、身をひるがえして離れていく。明らかに、あまり近づきたくないという様子である。主人は、急いで別の話題をふった。
「先ほど先生が詩に詠まれたあの滝ですが……高さと険しさからか、こんな言い伝えがございましてな。魚が滝をさかのぼって頂上までたどりつけば、竜になれると申します。はるか昔、二匹の鯉が挑んでみたところ、一匹はみごと竜となって天に昇っていったものの、もう一匹は岩に頭を打ちつけて死んでしまったとか。おとぎ話ではありますが、確かにそんな夢想もしてみたくなるような絶景でございますなあ」
 詩人も、遠くの滝に目をやり、長いこと黙って見つめていたが、つと立ち上がると、新しい瓶を両脇に抱え、
「では、少し休ませていただきます」
と会釈して、湖の方へ歩き始めた。
「せ、先生。お体が冷えはしませんかな。あずまやの用意もございますので、どうぞあちらへ」
 めんくらった主の呼びかけに、
「天と地のはざまこそ、我が最良の寝床。ご心配めされるな」
と笑って答えると、そのまま歩いていった。両脇に荷物を抱えながらもうまく釣り合いを保ち、酔っているとは思えぬ足取りである。
 後ろ姿を見送りながら、主人はひとりごとを言った。
「先に詩を詠んでいただいて正解だったな。主賓の名前を間違えられてはかなわん。それにしても、妙なお人だ。酒の飲み過ぎで役職を追われたというのは、どうやら本当らしいな。それでいて、あんな詩才を与えられているとは、天のいたずらというべきか」
 詩人の方でも、顔をしかめてつぶやいている。
「楊だか柳だか楼だか知らんが、あんな春風にも飛ばされるような頼りないやつが出世するとは世も末だな。ろくな酒も飲めずに終わるだろうさ。登天? 竜翔? ちくしょうめ」

  *  *  *

 彼は今、水底を泳ぎ回っている。どうにもじっとしていられなかったのだ。歌声はもうやんでいたが、音楽は続いている。それに酒肴の香ばしさも漂ってくるようだ。ひとたび目覚めれば、自分の五感がずいぶん鋭いことに驚いた。久しく忘れていた「憧れ」という思いが、彼の内からわき起こり、全身を震わせる。彼は駆りたてられるように大きく体をうねらせると、背にのしかかる水の重みをかきわけて、水面をめざし昇っていった。
 やがて、彼の頭上に、きらきら光る波が一面にたち現れた。彼はしばし見とれ、輝く金の天井を突き破ったものかどうかためらった。そのとき、また歌が聞こえてきた。先ほどよりも静かな調子だが、すぐ近くから聞こえるようだ。彼は迷わず声をかけた。
「おうい」
「何だ、楊の青二才か? お前と飲む酒などないぞ。失せろ、ばかやろう」
 ひどいことを言っているが、機嫌は良さそうである。言葉の後には、からからという笑いが続いた。彼もすぐに応じた。
「ばかやろうはお前だ。だれと間違えているのか知らないが、いい匂いをさせてけちくさい奴だ」
 そういえばかつて友達と、こんな風に軽口をたたき合ったことがあった。なぜ忘れていたのだろう。なぜ、おれは今、ひとりなのだろう。ふと浮かんだ疑問が、酒の芳香と一緒に彼の胸を刺した。
「けちと言うか。しかし、お前はいったい誰だ。おれと酒のほかには、花か月くらいしか見当たらないんだがな。お前は月か?」
 おれは誰なんだろう、と新たな疑問を覚えながら、彼は返事をした。
「月ではない。わからないか、水の中だ。よく見てみろ……」
「水の中? ああ、おれの影が映っているな。お前はおれの影か?……お、影がうなずきおった。そうか影か」
 彼が答えに迷っているうちに、相手は勝手に納得したようだ。
「自分の影に声をかけられるとは、おれも超俗の度を高めたということかな。よし、一つ祝杯といこうじゃないか、影よ」
 祝杯といっても、男が自分一人で飲んでいるだけである。彼は疑念を振り払うように、ぐるぐると身をうねらせた。頭上では金色の天井が、ぱちゃぱちゃと軽い音をたてて揺れた。体に貼りついた苔が少しずつはがれていき、鱗がちらりちらりときらめく。
「……しかし、どこまでいっても手酌だな。おい影、お前には美人の知り合いなんぞいないのか。飲んでいるところに声をかけるからには、そのくらいの準備があってもいいだろうに」
「悪かったな。おれはさっき目が覚めたばかりだ。知り合いなんかいない」
「見聞が狭いのか。おれの影のくせに情けない奴だ。何が楽しくてぐうすか寝ていた」
「楽しかったわけではないが、起きると頭が痛むんだから仕方ない。あの滝の音が嫌いなんだ。お前が騒いだおかげで気がまぎれた」
「二日酔いか。ますます情けない。迎え酒を飲ませてやるぞ」
 ごそごそと音がしたかと思うと、ひときわ高い芳香が漂ってきた。男が新しい酒瓶の封を切ったのだが、もちろん水中の彼の目には見えない。彼はついに頭をもたげて、水の上に顔を出した。
「おい、こちらにも少しは酒をよこせよ」
 男は驚きもせず、彼の丸い目玉やぽっかり開いた口をじろじろ眺めて、言った。
「間抜け面だな、お前」
 彼が思い切り水をはねさせると、大笑いしながら、袖を広げて酒瓶を守った。
「おいおい、酒を水で薄めないでくれよ。杯の方の酒はくれてやろう。そら」
 男が杯の中身を放るのを、彼は跳ね上がって口で受け止めようとした。飲み込めたのはわずかだが、とろけるような美酒であった。熱い風が体の内にわき起こるような感じがして、湖水の冷たさが心地よかった。
 男はまた杯に少しずつ酒をそそいでは、二度、三度と彼の上に降らせた。もちろん、自分でも飲みながらである。彼も、身を踊らせて滴を受けた。一度は、全身が水の上に出るほど高く跳ね上がった。
「どうも手元が狂うな。ひしゃくを持ってくれば良かった」
 あぶなく杯まで一緒に投げそうになった男がつぶやいた。
「北斗星をひしゃくにして酒を酌む話はどうした? ほら、そこに見えているじゃないか。取ってくればいい」
 そう言って彼はからかった。頭上に広がる星空の、どこに北斗星があるか、彼はちゃんと知っている。かつて仲間と一緒に何度も見上げた空だ。
「聞いていたのか。おい、ちょっとこっちへ来い。……内密の話だがな、人として生を受ける前、おれは天界で仙人をやっていた」
「本当か、すごいじゃないか。玉京(天の都)はやっぱりいいところか?」
 興奮して、彼は尻尾をばたばたさせた。酔って軽くなった体がふわりと浮かび上がり、岸近くの石にぶつかりそうになるのを、あやうくかわす。
「もちろんだ。金銀の御殿がならび、天女が五色の衣をなびかせて舞い、鳳凰が長い尾をひいて飛び回る。竜駒にまたがり、五山玉池の絶景を眺めながら、杯をかたむける。今の酔い心地も悪くはないが、天界に比べるとまだまだだな」
「どうして今は地上にいるんだ。さては何かヘマをやったな」
 男は杯をひねくりながら、苦笑した。
「天にも了見の狭いやつというのがいるもんでな。地上でのつとめが済んでいたら、天上の酒を持ってきてお前にも飲ませてやるんだが」
「天だったら、おれにも行ける。向こうで待ち合わせて、一緒に飲めばいいさ」
 口をついて出た言葉に、彼は自分で驚いた。しかし、言葉を引っ込める気は起きなかった。そうだ、おれは行き方を知っている。前にも試してみて、仲間は成功したんだから。
「ほう、滝をさかのぼるか? だがお前、一度失敗したんじゃないのか? 額の傷がまだ残っているぞ」
 一番思い出したくないことを指摘されたが、酔っているせいか気にはならなかった。
「今度は大丈夫だ。傷はもう治ったし、前はただの鯉魚だったけれど、今はほら、」
 そう言って彼は、長いひれや、大きく強い尾を見せながら、
「そのへんの魚よりずっと力が強くなったんだから」
と誇らしげに言った。
 男は、改めて彼の姿をじっと眺めた。
「変な魚だとは思っていたがな。なるほど、滝をのぼると姿が変わるのか」
「そうさ。前だって、あと少しのところまで行ったんだ。危ない場所はもう知っているんだから、今度は簡単さ。玉京までだって、すぐに行けるとも」
「すぐに、と来たか。よし、お前が先に向こうに着いたら、酒盛りにいい場所を見つくろっておけよ」
「お前こそ、美人の知り合いを連れてこいよ。ひとを待たせるんだからな。そのくらいの準備はあってもいいだろう」
 そう言ってふたりは笑いあった。彼は、花の香りを含んだ夜気を吸い込みながら、自分にもこんな笑い声が出せるのか、と思った。
 やがて、男は歌いはじめ、彼は唱和した。男が舞うと、彼は水音をたてて拍子を取った。しぶきの一つ一つに月光が映って目がちらちらしはじめたころ、男は
「おれは寝る」
と言って静かになった。
 彼はしばらく水面をうろうろしていたが、やがて滝をさして泳ぎ始めた。酒のせいだろうか、体はふわふわと軽いのに、尻尾で水をかくたび、全身に力がみなぎってきた。
 滝の音が聞こえる。額はもう痛まない。彼は速度を上げた。苦しいくらいの水圧が、今は心地よく感じる。そのままの勢いで、滝の中へ躍り上がった。
(はやく天に行かないと)
 彼は朗らかに、激しい流れをさかのぼった。
(天に行って、先に着いた仲間を探して、あちこちの絶景や玉京を見て、あの男と飲む場所を見つくろっておこう)
 流れ落ちる滝に押し戻されるたび、新たな力がわいてきた。
(天界じゅうの酒が流れてきたとしても、飲み尽くしてやるぞ!)
 いつの間にか、彼には強い四肢ができていた。岩につかまり、水をかきながら、彼は更に進んだ。何か体にまつわりつくようだ、と思って見ると、それは彼のたてがみと、身の丈ほども伸びたひげであった。
(ここはもう天漢なんだろうか?)
 目に映るのは、相変わらず激しく泡立つ奔流ばかりだが、体はずっと楽になった。彼は、男に教えてもらった歌を口ずさみながら、さらに先を目指した。
(あいつもはやく来たらいいのに)
 ちくしょうめ、という男の声が聞こえたような気がして、彼は微笑んだ。月光に照らされ、金色に染められた水の中、彼は鱗をきらめかせながら、意気揚々と昇っていった。



2010年5月発行「年刊文芸誌 DtD」掲載

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