有澤由利
月と負け犬
西岡さんの手は温かかった。
十二月二十三日。
明日もあさっても、彼氏からクリスマスプレゼントが届かないことはわかっていた。よりにもよって、明日は休み。なんて悲しい「二十九歳のクリスマス」だろう。私の彼氏は地元に戻って試験浪人をしている。「公務員を目指している」といえば聞こえはいいかもしれないが、実態は単なるニートだ。予備校にも行かない、家で勉強するわけでもない、バイトすらしない。「ストレス解消」といってはゲームセンターでUFOキャッチャーばかりしている。おかげで私の部屋は安っぽいぬいぐるみだらけだ。そんなどうしようもない二十五歳でも、一人っ子だから親はそれほど苦にせず援助してくれているみたいだった。
「今年は、クリスマスプレゼント交換するの、やめよう」
先にいったのは私だ。二週間前のことだ。
「プレゼントなんて探す暇があったら勉強してよ!」
我慢していた「勉強して」という言葉をその時私は始めて電話口で叫んでいた。彼氏は、
「もうゲーセンに逃げないから、勉強するから。試験に受かってお前をこっちに呼ぶから」
と、べそをかいた。
なんだかかわいそうになって、結局、その次の日、出勤前にプレゼントを買って彼氏に送ってしまった。サービスカウンターで配送表に記入を済ませると、急に寂しくなった。配送指定日を二十四日にしたから、これが届いたからといってクリスマスプレゼントが彼氏から来ることはないだろう。散々いらないと豪語しておいて、いざ自分がクリスマスプレゼントを送ってしまうと、彼氏から何も届かないクリスマスというのはやっぱり悲しかった。
この街には彼氏との思い出が多すぎる。待ち合わせをした地下鉄の出口や、夜中にマンガを読んでいたコンビニエンスストア。手をつないでいる若いカップルを見ると、かつての自分と彼氏がそこにいるような気がする。知らず知らずに思い出に浸ってしまいながら通勤する毎日は、けっこう憂鬱だ。今日もこの街を、彼氏が置いていったスターバックスのタンブラーをぶら下げて、私は出社していく。人恋しさで冷えた体を、かつて二人で飲んだハウスブレンドで温める。カフェインで、虚しい空想から目を覚ます。
「もっと、俺に愛されてる自信持ってよ」
彼氏がいっていた言葉を思い出す。私は寂しくなんかない。ちゃんと、愛されているもの。ほどけそうなストールを巻きなおした。
女だらけのこの職場に、西岡さんはこの秋入社してきた。
初めて見たときは二人ぐらい子どものいるおじさんかと思った。「養う人がいるだろうに、こんな安月給の会社に……」なんて、見当違いな同情すらしていた。しょぼくれた一重の目をして、顔色は悪くて、スーツは肩のところがほころんでいる。曲がったメガネが、まさに「おじさん」だった。それが「同い年ですね」なんていうからびっくりした。まだ三十前だったのか。
私の会社は大通りに程近い場所にあり、そこで洋服をいろんな店舗に発送している。同じ服がスーパーの上では若作りをしたい奥様に五、六百円で買われ、駅にあるおしゃれな店では中学生が二千円出して「安い!」と買っていく。あんまりたくさん安い服ばかりを見ているので、地下鉄なんかに乗っていても、自分のところで扱っている安い服がすぐ目に付く。みんな、「これ、安物に見えなーい!」なんて買っていくけれど、やっぱり安物は安物だと思う。千円のチュニックに、ヴィトンのバッグ。この国の女性のセンスはやっぱりおかしい。
西岡さんは、みんなに優しい。私がついていけない二十代前半のキャピキャピした女の子たちとお昼ご飯を食べ、四十代のおばさま方に日報を持っていってあげる。休憩時間は数少ない男性社員たちとタバコを吸い、休み前の夜は、会社で一人浮いている私とラーメンを食べてくれる。
その日はラーメン屋でなく、居酒屋に行った。飲むと男の人に甘えたくなるから飲まないようにしていたけれど、結局私はやけになって、サワーを一杯だけ頼んでしまった。疲れていた。繁忙期と、先の見えない生活と。同僚としての西岡さんへの社交辞令で一通り上司の愚痴を吐き、そして案の定「彼氏がクリスマスプレゼントをくれない」と、ふてくされた。この人はきっと、こういう話を喜ぶだろうと思った。
よくいうことだけど、寝るだけの男なら、選ばなければいつでもつかまえられると思う。私は美人でもないし、スタイルもよくない。それでも何とかなる。世の中「草食系男子」なんていうけれど、「草食系」を装って、バカな女が近づいてくるのを待っている、くだらない「肉食系」が腐るほどいるのだ。それを見分けて近づけばいい。簡単なことだ。愚痴を吐いて弱みを見せる、相手を褒める、食事する、お酒を飲む、酔ったふりをして、甘える。別に難しいことじゃない。新しいことでもない。そんな方法は、安っぽい雑誌にこれでもかというほど書いてある。あとはそれを、自分が割り切ってできるかどうか、それだけだ。自分にそんなことができるなんて、潔癖だった高校生の頃は思っても見なかった。いつか、お互いを尊敬しあえる人と、お互いを高めあうような恋愛をする。そう固く信じていた。寂しさを紛らわすために、傷をなめあって寝る――そんな女のことを、くだらないと軽蔑していたはずだった
西岡さんは、まさに「寝てくれそうな男」だった。最初に食事をしたのはいつだったか。たまたま帰りが一緒になって、「仕事と遠距離恋愛お疲れ!」といきなり肩を抱かれた。その時、「この人とは寝れる」と思った。ほとんど本能的に。今、私はそれを計算に入れた上で、こうして西岡さんと飲んでいる。フラフラ歩いてトイレに行ってみたり、テーブルにつっぷして上目遣いで見つめてみたり。挙句の果てに、「もうイヤにゃー!」なんていっている。こういう自分は、本当に気持ち悪い。西岡さんのピンクの百円ライターと、箱にラメのついたメンソールのタバコみたいだ。
店を出ると、雪が凍ってツルツルだった。路面のアイスバーンに街灯の光や信号の色が反射する。
「手、つないで」
といったのは私だった。酔ったふりをして甘えた。
「俺でいいの?」
西岡さんが手を伸ばした。「私って上手いなあ」なんて思いながら、これでもかというほどわざとらしくコクンとうなずいて、その手を握った。西岡さんの手はびっくりするぐらい温かかった。手袋をしていても、素手の西岡さんの手の温かさが伝わってくる。前の会社で体を壊して、それから妙に体が温かくなってしまったのだと、西岡さんはいった。ヒョロッと背の高い西岡さんの肩の高さは、ピンヒールのブーツを履いた私の頭を乗せるのにちょうどいい高さだった。
「今日はラブラブで帰ろうか」
タバコのヤニで黄色くなった歯を見せて、西岡さんが笑う。たった一杯で酔うわけがないのは、西岡さんだってわかっているだろうに。これが大人の汚さなのだろうと思った。
コンビニに寄っても、横断歩道で滑りそうになっても、離した手を何度もつないだ。後ろから抱きついてみたり、首に手を回そうとしたりした。全部私がしたことだ。そうしていると、どうしようもなく落ち着いた。男の人とこんなふうに歩いたのは何ヶ月ぶりだろう。コート越しの西岡さんの体温は、「幸せ」だった。
小一時間歩いて、もうとっくに終電が行ってしまった駅で別れた。何事もなかったかのように、西岡さんは「お疲れ」と手を振った。
さっきまでの千鳥足が嘘みたいに、一人で家路をサクサク歩く。アイスバーンでも滑らない。街から離れるに連れて街灯は少なくなり、清潔な月の光が泥だらけの雪と私を照らした。私は自分が情けなかった。「幸せ」はすっかり冷めて、痛いくらい寒くてみじめだった。自己嫌悪で吐き気がした。眉間にしわがよる。何であんなことしたんだろう。酔ったふりをしただけで、冷静な自分は確かにいたはずだ。全部計算して行動した。じゃあ何で、「楽しいぶりっ子ごっこ」で止めておかなかったのだろう。よりにもよって、手なんかつないだんだろう。こんな虚しさは、予想できたはずなのに。
男というのは、女が弱っているときにばかり寄って来る。そして、そんな男はたいていどうしようもないものだ。自分が弱っているときには「支えになってくれている」気がするけれど、自分を取り戻したときにはただの「お荷物」でしかない。もうわかりきっているのに、私は辛くなる度寂しさから男を選び、そして捨てる。今の彼氏も、そういうタイミングでできた男だ。いつ別れるか――もう半年も終わらせるタイミングばかり考えている。西岡さんは、私の弱さを、きっと嗅ぎ分けている……。
どんどん結婚していく周りの友達。彼女たちは、寂しさに負けない。自分から男に媚びたりしない。この歳になると、付き合った男の数が多いのは、逆に恥ずかしいことだった。男を、一人の人間として愛せない。そんな無能さの現れでしかないような気がした。好きでもない男と寝るたびに、自分が汚れていく。単純に人を愛することが、どんどんできなくなっていく。ただ好きな人に手をつないで欲しいだけなのに、頭をなでて欲しいだけなのに、どうして私はそこで止まれないのか。何故心の前に、体を重ねてしまうのか。
いつか私は西岡さんをベッドに誘うだろうと思った。いや、今日が生理じゃなければ、きっと誘っていた。私が西岡さんに恋愛感情なんて持っていないのは明らかだった。西岡さんが私のことを好きじゃないのもわかっている。それでも私は、西岡さんと寝るのだろう。
気がつくと、私は走っていた。野良犬みたいに、意味もなく。白い息が、後ろに流れていく。運転の荒いタクシーに、クラクションを鳴らされた。人生への警笛みたいで、なんだか笑えた。
本当は、わかっているのだ。どうしようもないのは男ではなくて私なのだ。私が捨ててきた男達の中にだって、ちゃんと愛し合える男はいたはずなのだ。現に昔の男は今、幸せな結婚生活をしている。男が駄目だったんじゃない。私が男を駄目にしていく。出会い方が、別れ方が、何より私の彼らと向き合う姿勢が、きっと悪いのだ。今の彼氏だって、本当は素敵な人なのだ。
「俺と付き合ったら、前向きになれるよ」
泣いてばかりだったとき、彼氏がそういってくれた。その言葉が嬉しくて付き合った。前向きなあの人が好きだった。どうして逃げるような男に変わってしまったんだろう。今度は違うつもりだった。一生懸命愛してきたつもりだった。私の何が、あの人を駄目男にしてしまったんだろう。やっぱり私が、同じ間違いを繰り返したのか。そしてこれからも、同じことを繰り返し続けるのか――。
家に帰り、携帯を見ると、彼氏からメールが来ていた。
「クリスマスプレゼント」というタイトルとともに、UFOキャッチャーでとったぬいぐるみが四匹写っていた。顔をゆがめ、携帯を壁に投げつけて、お風呂にお湯をはりに行った。蛇口をひねると頭の上からシャワーが勢いよく出てきた。やはり酔っていた。私はスーツを着たまま、頭から冷たい水をかぶった。涙も出なかった。水が熱いお湯に変わっても、私はそこを動けなかった。
2010年5月発行「年刊文芸誌 DtD」掲載
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